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今はもうない、母方の生家は宮城の港町にあった。

 

祖父と祖母が住んでいたが、私と家族は「おばあちゃんち」と呼んでいた。
親が共働きだったので夏休みになると歳の近い弟と預けられた。

窓から海が見えるほど港に隣接していて、歩いて30秒で岸壁にたどり着く。

石油タンカーや飼料を積んだ船が多く、家から向こうは工場地域だった。

おばあちゃんちはちょっとした食料品を置いている酒屋を営んでいたので、長距離移動のトラック運転手がよく立ち寄っていたのを覚えいてる。

東京に出て写真の専門学校に通っていた20歳の時、そこに住む祖父が亡くなった。

葬儀を執り行い、ひと段落した夏の日に、ふと物置に入ってみた。敷地の一番奥まった場所にあり、ひっそりとして中は暗い。よくかくれんぼしたりなんとなしに忍び込んでいたものだった。

入り口の脇にひとかたまりのネガフィルムを見つけた。随分と埃をかぶってネガには傷も付いていた。

祖母いわく、誰が撮ったのかも分からないものだという。
何が写っているのか、純粋に見たいと思った。

そのフィルムを預かって暗室で現像すると、昭和30年代のものだということが分かった。
幼い母も何枚も写っていた。小さな彼女が七五三で身につけている着物は、私も7歳の時に着たものだった。

 

商店を営んでいた祖父と、まだ若い祖母。

屈託のない顔で笑う子供達。

プリントにして翌年の正月、祖母と母の兄弟たちと一緒に見た。

写真にはたくさんの人たちが写っていた。

震災で津波の被害にあった町は、今ではずいぶんと寂れてしまった場所だが、当時は戦後復興のエネルギーに満ちて人も多く、賑やかな町だったのが分かる。

そして当たり前ではあるけれど、写っている人の多くがもうこの世から去った人たちだった。
フィルムがなぜそんなところにあったのか?

いままで誰も見たことがなかったというのに突然現れた人々の記録。
もしかしたら、誰かが見つけてもらいたかったのかもしれないなと思った。


血縁。
家族の属していた、または属する家族として近しいDNAという接点で繋がった人々。

随分遠くまで行けるようになってしまったこの時代でも、実際にはすぐ会える場所にいる人は限られている。

一度会っただけで何年も、場合によっては何十年も会わない人もいる。
それでもハレの日という冠婚葬祭に呼ぶものだという慣習は今なお残り続けている。非日常な状況にしか現れない人たちというのも、よく考えると不思議なものだ。

日本は元々武家社会のあたりから血縁よりも地縁、血の繋がりを重視して生活を営んでいたというのはそうする他になかった土地の狭さ所以もあるだろう。遠くの親戚よりは近くの他人。

私も都市部で生まれ育ち、繋がりは血の縁かどうかであるよりも人それぞれの繋がりであると思っている。

ただ地方に行くほど、その地の繋がりはコミュニティの狭さ故に血の繋がりと地続きであることも多い。


病院などで聞かれる遺伝的なリスクを考慮するための「血縁者に大きな病気をした人はいますか」の質問は大体三親等くらいまでを想定しているという。
三親等とのDNA的関わりは、おおよそ12.5%。

私と薄くとも12.5%の繋がりがある人たち、またその配偶者たち。


 

 

 

 

 

今年の頭に、叔母が亡くなった。

葬儀後に彼女のアルバムを作りたいと話してくれた叔父に頼まれて写真を探す為古いHDDを久々に立ち上げた時、彼らのハレの日に多くの写真を撮影していたことに気がついた。


自覚的にも無自覚に記録し続けてきたその写真達。

これからも増えていくのだろうか。

まだ続く予定の人生を通して、少しずつ編んでいこうと思う。



 

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